
今の太宰府天満宮になったお話し
太宰府天満宮とは
「太宰府天満宮」と書かれた石碑の辺りから、一筋の石畳が本殿まで続いている。
ここからが太宰府天満宮である。
太宰府天満宮は、江戸時代までは「天原山安楽寺天満宮」という神仏習合の宮寺だった。
「太宰府天満宮」と呼ばれるようになったのは、昭和22年(1947年)からである。
御祭神は菅原道真である。

太宰府天満宮と呼ばれるようになったのは、昭和になってからなんですね。以外と最近!

道真が太宰府天満宮に祀られる事になるお話。
菅原道真は平安時代の学者で政治家。
当時の学者の最高位である文章博士となり、光孝・宇田・醍醐の3代の天皇に仕えた。
特に宇田天皇に篤く用いられ、学者としては異例なことに右大臣にまで出世した。
しかし、そのことが災いし、左大臣・藤原時平らの妬みを買い、讒言によって大宰権帥に左遷された。
延喜元(901年)の事である。
現在、御旅所のある榎社にあったといわれる「府の南館」の粗末宿舎で、約2年の不遇の時を過ごした道真は、延喜3年、失意のうちに太宰府の地で没した。
京より道真に従って来ていた味酒安行という門弟が道真の葬送を行い、墓所を造った。
太宰府天満宮のはじめは菅原道真のお墓を守るお寺だったのである。
天満宮の由緒を語る天神縁起には、棺をかく牛が動かなくなったのでその地を道真の墓所と定めた、と記されている。
本殿が建つその下に、今も道真が眠ると伝えられている。
天満宮は、その祭神が学問に秀でていたことから、「学問の神」として全国から参拝に訪れる人が跡を絶たない。

日本だけじゃなく、世界中から参拝に訪れるよね~!!
お正月の3日間で、200万人来るらしい!!
先日、テレビで太宰府天満宮が紹介されていましたが、本殿の正面にある鏡の向こう側辺りに道真のお墓があるようです。
飛梅伝説
参道の正面に建つ延寿王院。その前に立っている道真の歌碑(太宰府天満宮提供)
京を発つ時に詠んだ歌
「東風(こち)吹かば におひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」
が刻まれている。
有名な歌ですが、道真が太宰府に左遷される時に大切にしていた梅の木に詠んだ歌。
現代語訳
(春になって)東の風が吹いたならば、その香りを(私のもとまで)送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、(咲く)春を忘れてくれるなよ。
切ない歌ですね。
このように、道真公はこよなく梅花を愛されていた。太宰府天満宮には、この時一緒に飛んできた梅の一枝が根付いたという。本殿の前にある大きな梅の木。これが御神木の「飛梅」
飛梅柵の擬宝珠・釘かくし
飛梅の柵の柱頭につけられた宝珠形の装飾具と梅花形の釘かくし。擬宝珠に、天正17(1589)年、留守別当大鳥居信昌が願主となり、鋳物師柳井与助が制作したと銘がある。県文化財の実物は、宝物殿に収蔵されている。現在の「飛梅」の字は、古賀井卿の元字を、人形師の中村弘峰氏が刻したもの。
鳥点という筆法を参考にしたという。

宝物殿にある、「五言絶句双幅」(伝菅公筆)の筆法が鳥点
太宰府に到着して日も浅い頃の詩詠。
古来、御祭神御真筆として特別な場合のみ拝観を許していた書幅である。
榎社近くの飛梅(太宰府市通古賀)
飛梅は最初、道真公の配所に飛んできたが、天満宮の社殿が造営されると現在の場所に移された。配所跡にその実を植え育ったものという。
「太宰府」といえば「梅」、「梅」といえば「太宰府」
と多くの人々が連想するほど、太宰府と梅はきってもきれない縁に結ばれている。
天満宮の境内には、約200種類、6000本の梅の木があるといわれ、新春から3月にかけて境内は馥郁とした香に包まれる。
(太宰府紀行/おさいふまいり参照)
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